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ウィル=キムリッカ『現代政治理論』8

第六章 コミュニタリアニズム

報告:五十嵐
第一節
・自己決定の価値をめぐって
リベラル:特定の価値そのものが「本当に追及するに値するか…疑ったり、思い悩んだりする」(p.317)
→but「当の本人が是認していない価値に従って外側から指導されることで善くなる人生など存在しないから」(是認の要件)パターナリズムには反対(p.319)
→善く生きるための二つの前提条件:
ー分の信念に従って生きること、∧顕修提供する情報、実例、論拠に照らしてそうした信念を吟味できること
→「中立国家」(ロールズ):善き生の諸構想に対して中立
→「善に関する希薄な理論」(ロールズ)に基づいて、基本財を分配

第二節
コミュニタリアニズム:「中立国家は「共通善の政治」…のために放棄されるべき」(p.322)
→「共通善が善き生の実体的な構想として考えられており、この構想によって共同体の生き方が定義される」(p.323) ⇔選好の統合過程の帰結としての共通善(リベラル)
→コミュニタリアンの国家=完成主義の国家(既存の慣習に基づいた生き方の序列化)
→リベラルへの反論:
ー己決定への反対(第三節)、⊆己決定と中立性との間に想定される結びつきに反対(第四節)

第三節 負荷なき自己
・自己決定への反対
リベラル:「自己が自由であるのは、社会状況の特徴を距離を置いて把握し、理性の命令に従って判断する場合だけ」(p.325)(カント主義)
コミュニタリアン:自己は既存の社会慣習の中に「埋めこまれている」、あるいは「状況付けられている」おり、しかも社会慣習から距離を置いたりはできない⇒自己決定は社会的役割の内部で遂行される
・コミュニタリアンからの反論
.螢戰薀襪慮解は空虚
テイラー:リベラルを突き詰めればニーチェ的ニヒリズム
→リベラルを誤解
→真の論争:どのようにしてより好ましい課題を獲得し、その価値を判断するか
→リベラル:「所与」とされているものを疑い、可能ならば取り替えることができる方がよい(テイラーはこれに反論できていない)
⊆己認識の歪曲 (p.331~)
サンデル:自己は「目的によって構成されている。」そして、その目的は「我々が社会的文脈に埋めこまれているおかげで発見する」
論拠:a.「埋めこまれた自己」、b.「根源的な自己理解」
b:「負荷なき自己」は「根源的自己理解」と一致しない。自己認識には何らかの動機が含まれる。
→リベラル:「ありうべき再吟味を免れた目的や目標など存在しないという意味で、われわれが目的に優先するものとして自己を理解しているということ」(人間は幾つかの「負荷をかけられた自己」を比較することができる)
→別の論拠としてのa
6ζ韻亮汰に埋めこまれていることを無視している
コミュニタリアン:自己発見としての実践的推論⇔判断としての実践的推論
→リベラルの反論:自己発見が「判断」に取って代わるわけではない
→サンデル:「主体は目的によって構成されるが、いわば再構成されうる」(p.336)
→サンデルは人格がその目的に優先することを認めている(リベラルと変らない)
→「問題は、自己を構成しているこれらの帰属意識が取るに足らないものであるとか価値を失ったものであると考えるようになったときに、これらを完全に拒絶することができるのかどうか」(p.337)
→コミュニタリアン:できない、してはならない(but説得力なし)

第四節 社会的テーゼ
・社会的テーゼ:ある種の社会的環境を備えた社会においてしか、自己決定能力は行使されえない
→リベラルな中立性の廃棄の要請?
(顕醜渋い魄飮する必要性(A)
コミュニタリアン:文化市場への非介入は多元主義の土台を揺るがす
→キムリッカの反論:第一のケース(中立的)と第二のケース(非中立的)のどっちでもいいはず(p.342)
→社会の完成主義か国家の完成主義かの選択
共同フォーラムの必要性(B)
コミュニタリアン:リベラル(ロールズ)の考えでは、善についての個人の判断のみに限定され、気まぐれとなる
→反論:ロールズは「共同フォーラム≠国家」と言っているだけ
→再反論:文化市場が「自由の文化」を侵害する恐れがある
→結局、国家的フォーラムと非国家的なそれとを比較する必要
→市民社会の政治化されていないフォーラムの改善の必要性(キムリッカ)
政治的正統性の前提条件について(C)
テイラー:「中立性原理に支配されている政治制度では正統性を維持」できない(p.351)
→反論:「国家の正統性の基礎は正義の共有感であって、共有された善の構想ではない」(p.353)
→再反論:共通善が政治的に同一化しないと、他者の権利要求を尊重しない…共和主義的忠誠の感覚
 →再々反論:全ての者が是認可能な共通慣習などあるのか?(彼らは例を挙げていない。)むしろコミュニタリアンは女性などの周縁化された集団をその位置に固定してしまう。彼らは文化そのものを検証しようとしない。
⇒結局、論争では「国家の適切な役割に関して争っている」(p.360)

第五節 コミュニタリアニズムの政治
・リベラル:文化領域の優先順位で混乱 ex.文盲問題
→文化的成果などへのアクセスの保証が必要(コミュニタリアンにも一理あり)
→but近代民主主義諸国では不寛容の可能性
→公的な諸機関において、誰の言語を使うかを考えれば明らか(リベラルの中立性も同様に何を要請するか明らかではない)

疑問点
・342ページのふたつのケースの前者において、果たして国家の中立性は維持されているのか。また、外部の市民社会による判断が現実に正統性を持ちうるのか。
感想
・第五節の中立性の要請の具体化は、困難な問題であり、これは基本財の分配の問題において明らかとなった、リベラルな政治哲学と現実の制度とのギャップの問題と本質的には同じであろう。具体的な決定は、無論政治哲学に一定程度縛られながらも、結局、より好ましい制度の開発と、共同体における議論とその決定に拠るところとなろうか。そのように考えていけば、政治哲学が一定程度、共同体の議論と選択に対して開かれたもの(この表現も曖昧だが)であることが、必要であると言えないだろうか。

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